大阪・京都へ 2024.10.21〜10.24
今年は芭蕉が亡くなって330周年の年にあたります。
そんなこともあって春には生誕の地伊賀上野を訪ねました。そしてこの度、亡くなった大阪の地を訪ねました。
小生の年齢のこともあり、たぶん今回が芭蕉の足跡を訪ねる最後の旅になるのではと思います。
22年間を振り返り思ったことは「無常迅速」ということでした。
2024.11.04 G.Kitoh
下の全写真を左クリックしますと、多少大きめな写真(横1020ピクセル)でご覧いただけます。
2024.10.21 大阪まで
全日空を利用しました。空港の向こう側に建設中の ラピダス工場の建物 が見えます。
23年に製造拠点の立地を決定、25年に試作ライン稼働、27年に半導体製造開始と言われています。
【写真:No1 新千歳空港と建設中のラピダス工場】
10月12日の道新が、工業団地苫東の特集を載せていました。
1972年第三セクター苫小牧東部開発が設立しましたが、巨額債務を抱えて破綻、1999年に株式会社苫東が事業を引き継ぎました。
ここ10年は企業進出が増え、現在の進出企業数は123社だそうです。
写真は、苫東内にあるタンク57基の 石油備蓄基地 です。
関西へ向かう飛行機は 敦賀湾 上空を通ります。敦賀市街地と敦賀半島を見渡すことができます。
2006年、2016年の2回敦賀の芭蕉跡を訪ねました。
大阪伊丹空港 に着陸する少し前です。淀川下流でしょうか。
【写真:No4 伊丹空港着陸前】
2003年5月、大阪駅アクティ大阪にあった「うを佐」を初めて利用しました。
あれから21年経ちました。駅ビルが新しくなりサウスゲートビルになりましたが店は続いています。
予約しておきました。コース料理を頼みましたが、たくさんの料理で最後の寿司ではお腹がいっぱいでした。
瓶の黒ビールがありました。
10.22 梅旧院、万博記念公園
梅旧院 には芭蕉供養塔があります。2005年9月に訪ね、門を開けていただき写真を撮りました。
供養塔を建てたのは、不二庵二柳(ふじあんじりゅう) です。二柳が山中温泉泉屋の桃妖の弟子であることを知りもう一度訪ねることにしま
した。芭蕉(桃青)、泉屋久米之助(桃妖)、二柳(桃左)と俳号に桃が続いていることが分かったからです。
事前に調べると梅旧院は9月30日に破産手続きが開始されたと知りました。
地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ケ丘駅で下車、道路の向こうが太平寺です。
【写真:No8 太平寺】
町内の案内板を見ると「梅旧禅院」と書かれています。
【写真:No9 夕陽丘町案内板】
梅旧院に行ってみると「カミユ」の名前になっていました。
【写真:No10 旧梅旧院の写真】
2005年に撮った写真です。当時はフィルムカメラでした。
見づらいですが梅旧禅院の名前でした。
【写真:No11 2005年9月写真】
横から庭を見ると芭蕉供養塔が右に二柳の墓が左に見えます。
2005年の時は、芭蕉の供養塔が左にあって二柳の墓は右でした。花が供えられていました。
【写真:No13 2005年9月の同碑】
今後、芭蕉供養塔などはどうなるのでしょうか。寂しい気持ちで道端を見ると露草が咲いていました。
来年は、EXPO2025が4/13〜10/13の184日間 舞洲(まいしま)で開催されます。EXPO70に比べて盛り上がりはどうでしょうか。1970年6月8日、勤めて2年目の小生は万博会場にいました。54年ぶりにその跡を訪ねました。
モノレール万博記念公園駅を降りて向かいの公園を眺めました。
【写真:No15 万博記念公園駅から 】
エキスポランドのあったところはエキスポシティになっていました。
体験型ミュージアム「ニフレル」などが入っています。
【写真:No16 エキスポシティ】
万博記念公園に入ると正面は太陽の広場です。太陽の塔が立っています。
【写真:No17 太陽の塔】
かつての〇〇館、パビリオンなどは姿を消して緑に覆われていました。
コスモス・コキアフェスタが花の丘で開かれていました。
【写真:No18 花の丘】
ホテルに戻り一休みしてお好み焼きを食べに行きました。
この店の利用は4回目です。これが最後だろうと味わいました。テーブルが5つほどの小さな店ですが、美味しさは抜群です。
【写真:No19 メロディーお好み焼き】
【写真:No20 メロディー外観】
10.23 南御堂、京阪電車淀屋橋駅から三条駅まで
芭蕉は1694(元禄7)年10月12日申の刻(午後4時頃)に亡くなりました。
遺骸はその日淀川の河船に乗せられ伏見まで上がり、13日朝伏見を発って大津膳所の 義仲寺 に入りました。そして14日、同寺境内に埋葬されました。
そのルートをたどろうと思いました。
まず、芭蕉が亡くなった場所のそばに建つ 南御堂(みなみみどう)です。25日から始まる 報恩講 のための準備の最中でした。
【写真:No21 南御堂】
庭園にある芭蕉句碑です。
「旅に病でゆめは枯野をかけまわる」と彫られています。今回が7度目の訪問です。
向かいの道路に渡り「芭蕉翁終焉の地の碑」の近くに行きました。
下の文字は地中に埋まっています。
碑の所から見た南御堂です。南御堂の上は大阪エクセルホテル東急です。
【写真:No24 碑付近から見た南御堂】
ここから御堂筋を淀屋橋まで歩きました。
芭蕉の遺骸は、淀屋橋から船に乗ったと思われます。
並木のイチョウの葉は緑でしたが銀杏が落ちていました。
淀屋橋から京阪電車に乗車しました。線路は淀川に沿うところが多いです。途中で淀川を渡りました。
三条駅で降りました。ここから地下鉄東西線に乗り換えて浜大津・膳所へ行き義仲寺へ向かう予定でした。しかし疲れのため断念しました。
三条大橋は、東海道五十三次の西の起点でありました。
三条大橋が架かる鴨川の西に高瀬川が流れています。ここに架かる橋は三条小橋です。
三条大橋の近くに 瑞泉寺 があります。静かに佇む寺です。
参拝する人はいないので入ってみました。門の額には「漸到確境」と書いてあります。ようやく確かな悟りの境地に到った人々の霊が眠っています、という意味と解説してありました。
この寺は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次とその一族を弔っている所でした。
秀吉は後継者に秀次を選びましたが、我が子秀頼が生まれると秀次を疎んじるようになり、ついに28歳の秀次を高野山で自死に追い込みました。
秀次の自死の後、その一族39人が三条大橋の河原で処刑されました。これら
の人たちを極楽浄土に導いた地蔵尊を祭っていました。
秀次の死後3年目に秀吉が61歳で亡くなり、20年後には秀頼が23歳で亡くなっています。
大阪に戻り、久しぶりにエビスバーに行きました。
梅田地下街ホワイティのノースモールに店があったのですがありません。イーストモールに移っていました。
今回が4回目の利用です。飲む量が5杯から3杯に変わりました。
【写真:No35 エビスバー-2】
10.24 大阪から帰途
今回3泊した 大阪新阪急ホテル は来年1月4日で営業を終了します。何回か利用しましたがこれが最後の利用です。
20数年の間にホテル、社寺、店舗などに変化がありました。芭蕉がよく述べていた「無常迅速」を実感しました。
そう思いながらホテルそばのバス乗り場から関空行のバスに乗車しました。
関空連絡橋 が見えてきました。関空 利用は2019年9月以来です。
【写真:No36 関空連絡橋 】
関空の中の店がすっかり変わっていました。特に物販店が少なくて購入予定していた物がありませんでした。
店の方に聞くとコロナのため多数の店が退店し戻っていないということでした。
昼食はガーリックライスと ひやしあめ にしました。
【写真:No37 昼食】
13:55発の飛行機の到着が遅れ出発が15分遅れました。
【写真:No38 帰りの飛行機】
新千歳空港の茶色くなった芝に飛行機の影が映って動いていました。