伊賀・名古屋へ 2024..04.14〜04.17
伊賀上野を訪ねてきました。伊賀の新大仏寺を訪ねるのが主な目的でした。
帰る日に時間があり名古屋の笠寺を訪ねました。両地区を訪ねるのはこれが最後だと思いながら歩きました。
2024.04.22 G.Kitoh
下の全写真を左クリックしますと、多少大きめな写真(横1020ピクセル)でご覧いただけます。
2024.04.14 伊賀市まで
新千歳を10時発の飛行機で中部空港へ向かい、名古屋へ出て高速バスに乗り伊賀市に16時過ぎに着きました。
ウトナイ湖 に水鳥の姿はありませんでした。
【写真:No1 4.14ウトナイ湖】
雲が多かったのですが 鳥海山 は何とか見えました。
昨年6月に見ることができなかったので今回見ることができてよかったです。
新潟を過ぎると本州を横断します。残雪の山がきれいでした。
空港で昼食後、電車で名古屋へ行きました。
名鉄バスセンター14:25発の高速バスに乗ると1時間45分ほどで伊賀市に着きます。
【写真:No4 4.14高速バス乗り場】
伊賀市 に入り御代(みだい)インター付近です。桜が咲いていました。
上野市 駅で降りると芭蕉像が迎えてくれました。
夕食はホテルレストランで 伊賀牛 すき焼きを食べました。
04.15 伊賀市
新大仏寺行きのバスは11:30発です。それまでの間、周辺を歩きました。
昔から続く和菓子店「桔梗屋織居」です。
慶長5(1600)年創業で現当主は18代目ということです。芭蕉も利用したのでしょうか。
【写真:No8 4.15和菓子店】
「升(ます)かふて分別かわる月見かな」という句碑がありました。
【写真:No9 4.15升(ます)かふて句碑】
八重桜は満開でした。
【写真:No10 4.15八重桜】
バスは服部川に沿って走ります。
【写真:No11 4.15服部川】
成田山前バス停で降りました。新大仏寺は伊賀の成田山と言われています。
【写真:No12 4.15成田山バス停】
橋を渡りまっすぐ先が新大仏寺です。
【写真:No13 4.15新大仏寺への道】
芭蕉は1688(貞享5)年2月にこの寺を訪ねています。そうして、このときの様子を笈の小文で詳しく記しています。
また、伊賀新大仏之記という俳文を書いています。それで是非この寺を訪ねたいと思いました。
門の下には伊賀別所と書かれています。東大寺の七別所の一つです。
【写真:No15 4.15大門-2】
この寺を芭蕉が訪ねたときは、1635(寛永12)年5月に起きた山崩れによって荒廃していました。
その様子を見て詠んだのが「丈六に陽炎高し石の上」の句です。丈六ですから約4.8bの仏像が倒れ埋もれていたのです。
【写真:No16 4.15丈六塚-1】
【写真:No17 4.15丈六塚-2】
かつて本尊の大仏如来をまつったことから大仏殿と称しています。
【写真:No18 4.15大仏殿】
大仏殿の奥に岩屋不動尊を拝む堂があります。ここから不動尊の全体像は窺えなかったです。
外から見てみましたが剣の一部が見えるだけでした。
【写真:No19 4.15岩屋不動尊】
芭蕉が見た倒れた仏像は修復され、座像の仏像となり新大仏殿( 宝蔵庫)に置かれています。
ここを拝観しましたが、仏像と並んで当寺の開山 俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人の座像がありました。
【写真:No20 4.15新大仏殿・宝蔵庫】
芭蕉の旧跡に対する敬慕の念がよく出ているが、寺の創建者 俊乗上人 の遺徳をしのび、仏道にせよ俳道にせよ、精進の道のけだかさに想いを寄せたの
だろう、という芭蕉俳文集の評が的確だとおもいました。
【写真:No21 4.15大仏像と俊乗坊重源像】
寺の境内をぐるりと回る東海自然歩道を歩きました。細い山道でした。
大仏山の山頂を通りました。一周1時間弱でした。
かなり大きな寺でした。はじめ数人の人がいましたが午後は私一人でした。
【写真:No24 4.15新大仏寺案内図】
夕食は、「晴天の霹靂」という店で豚カツを食べました。
ホテルへ帰る途中、新しい句碑を見つけました。
「さまざまの事おもひ出す桜哉」の句は、笈の小文では「丈六に」の句の後に載っています。
04.16 伊賀市・名古屋市
今回で3度目の伊賀上野ですがこれが最後です。
それで名古屋へ向かうまでの間伊賀市内を歩きました。
マンホールの蓋には忍者の姿を彫っています。
【写真:No27 4.16マンホール蓋】
芭蕉の生家を見て愛染院に向かいました。芭蕉生家から愛染院まで徒歩数分の距離です。
「家はみな杖にしら髪の墓参り」と芭蕉は詠んでいますが、この道を杖をつきながら歩いたのでしょう。
【写真:No28 4.16芭蕉生家】
愛染院にある故郷塚(こきょうづか)を訪ねました。ここに芭蕉の遺髪をまつっています。
【写真:No29 4.16故郷塚】
故郷塚の近くに「数ならぬ身となおもひそ玉祭り」の句碑があります。1694(元
禄7)年6月江戸芭蕉庵で亡くなった寿貞を追悼した句です。
この句と「家はみな」の句は1694(元禄7)年の盆会(ぼんえ)のさい詠まれたものです。
この年の10月に芭蕉が亡くなったことを思うと感慨ひとしおです。
故郷塚のある庭に瓢竹庵(ひょうちくあん)という茶室があります。
ここの縁台に腰掛けさせてもらい散る桜の花をしばらく見てきました。
【写真:No32 4.16散る桜】
伊賀鉄道上野市駅に行き、伊賀上野駅まで電車に乗りました。
2003年に伊賀神戸から上野市まで乗車しているので全線踏破です。
2両編成です。乗客は前の車両には私一人、後ろの車両に3人でした。
伊賀上野駅はJR西日本の駅舎でした。関西本線の駅ですが人影はなくひっそりしていました。
駅前のモニュメントは「忍」の字を後ろから見た形です。
駅に向かって右側に「月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿」の句碑がありました。
1664(寛文4)年、芭蕉が21歳の時の句です。
伊賀上野駅に亀山行きの気動車1両が入ってきました。この区間は非電化です。
名古屋・伊賀上野を列車に乗ることも検討しましたが、乗り換えが2回あり所要時間が2時間以上かかるのでバスにしました。
伊賀上野駅から上野市駅に戻る時、服部川を渡ることに気づきました。
新大仏寺へ行くときに見た川がここまで流れてきていました。
昼食をとった店の向かいにある「かぎや餅店」です。
当主は17代目と教えてくれました。蓑虫庵に向かう芭蕉がこの店に寄ったのかもしれません。
上野公園に行き、芭蕉翁記念館で「芭蕉と源氏物語」展を観ました。
それから俳聖殿に向かいました。最初に見てから21年経ったと思いました。
14時27分発の高速バスで名古屋へ向かいました。沿線の桜は花が落ちていました。
名古屋のホテルで一休みし夕食はみそかつ、エビフライ、きしめんがセットの定食を食べました。ビールはサッポロビールでしたのでお代わりしました。
4.17 名古屋市から帰途
名古屋では笠寺に芭蕉句碑があるので行くことにしました。
名鉄電車で本笠寺(もとかさでら)下車、すぐ近くに笠寺の西門があります。
笠寺の正式名称は笠覆寺(りゅうふくじ)です。本堂ではお経が流れていました。
雨に濡れている観音像に娘が自分が被っていた笠をかけてあげた、ということから今の笠寺につながる歴史があります。
池にかかる太鼓橋の先に山門があります。
放生池にアオサギが1羽いました。
「笠寺や漏らぬ岩屋も春の雨」の句碑が木立の中に建っていました。
この句は鳴海村の庄屋をつとめていた下里知足に依頼された芭蕉が手紙に書いて送ったものです。
後日、笈の小文の旅の途中、1687(貞享4)年11月に知足邸でこの句を発句として歌仙興行が行われています。
その時の句が並んでいるのですが読むことができません。
笠寺にあるもう一つの芭蕉句碑「星崎の闇を見よとや啼千鳥」です。
隣に宮本武蔵の碑がありました。名古屋に武蔵が滞在していた時、この寺に住んでいたことによるようです。
本笠寺から中部空港まで電車を乗り継いで行きました。
遅くなった昼食は 仙台たん定食 にしました。今回は食事に肉類が多かったです。
中部空港 は黄砂のためでしょうか遠くがかすんでいました。
スカイマークを利用しましたが往復で13,220円でした。この料金でしたので旅行ができました。